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秋立ちぬ①

地下鉄の出入口階段を勢いよく駆け上ってきた秀男(大沢健三郎)
この階段は三越の晴海通り沿いにあったA6出入口になる。2009年の工事で撤去されたようで、残念ながら現在は無いが、『日本映画の名匠 成瀬巳喜男ファンページ』様にて公開されているので、是非一度ご覧いただきたい。
大都会にびっくりしキョロキョロ見回す秀男。母 茂子(乙羽信子)は久しぶりの故郷に嬉しそうだ。
​ 秀男が母に連れられてきた東京の街 : 銀座4丁目交差点(東京都中央区銀座4-6 銀座三越前)
2015.07.29 巡礼
・東京メトロ銀座駅下車すぐ
1960年 東宝 監督:成瀬巳喜男 製作:成瀬巳喜男 シネスコ モノクロ 79分
​出演:乙羽信子、加東大介、夏木陽介、河津清三郎、原知佐子、大沢健三郎、一木双葉、藤原釜足、賀原夏子、菅井きん、藤間紫、三田照子、園田あゆみ、小西瑠美、野上優子、草川直也、三浦敏男、西条康彦、桜井巨郎、杉浦千恵
​相変わらずキョロキョロ歩く秀男。
この時期歩道橋はまだない。
​ 秀男と母が渡った大通り : 昭和通り(東京都中央区銀座1-14と1-20の間)
2015.07.29 巡礼
・東京メトロ有楽町線銀座一丁目駅下車 徒歩3分
昭和通りを渡ろうとする2人。田舎モンの秀男には一大決心がいる。
2人の前にあるのが当時の横断歩道だ。こんな都会のど真ん中でも縞模様ではなく両側の線だけのようだ。
無事中央分離帯についた2人。
この場所については当初全くわからなかったが『ぼくの近代建築コレクション』の管理人様から「一番左は宮脇ビル」との情報をいただき判明した。カラーで見ると綺麗な黄土色のビルで、この並びでは唯一当時のまま残っているビルだ。
銀座4丁目交差点を後にした2人は、晴海通りを南へ、三原橋交差点を左に曲がり昭和通りの銀座1-14辺りに来た。
​公園内に入ってきた秀男と茂子
ここの敷地の約1/5が公園で、残りが旧京橋小学校になる。現在は小学校の場所に京橋プラザが建っている。
​ 母の通った学校 : 京橋公園・旧 京橋小学校(京橋プラザ/東京都中央区銀座1−25−2)
「むかし母ちゃんが卒業した学校だよ」と懐かしげに話す茂子。
秀男「でけえずら。県庁みてえずら。」って言ってたような・・・
実家へ歩き始める茂子と秀男。
2015.07.29 巡礼
・東京メトロ有楽町線新富町駅下車 徒歩5分
昭和通りを渡り宮脇ビル横の道を歩くと京橋公園になる。
​ 秀男と少女が初めて出会った橋 : 新富橋(東京都中央区銀座1-27、28と新富町1-4、2-1の間)
2015.07.29 巡礼
・東京メトロ有楽町線新富町駅下車 2番出口より徒歩3分
とうとう少女とすれ違ってしまうずら。
振り向き秀男を見る少女。
背中に視線を感じ振り返る秀男。これが二人の運命の出会いになる。
奥の建物は「竹田ビル」といい、残念ながら現在は建て替えられているが、近代建築愛好家の中では有名な建物である。『ぼくの近代建築コレクション』様のブログでも公開しているので、是非ご一読いただきたい。
また、『日本映画の名匠 成瀬巳喜男ファンページ』様でも新富橋の画像を公開しているので、こちらも是非ご覧いただきたい。
​京橋公園を出た茂子と秀男は新富橋に差しかかった。この橋を渡り左に曲がればもう茂子の実家は近い。
橋の向こうから着物を着た少女(一木双葉)が何やら踊りながら来た。田舎ではこんな光景に出合ったことのない秀男は少し焦る。
新富橋の下を流れる川は「楓川・築地川連絡運河」といい、関東大震災の復興事業として昭和5年に開削されたが、首都高建設の為、昭和35年には埋め立てられ姿を消した。
2015.07.29 巡礼
・東京メトロ、都営地下鉄東銀座駅下車 A7出口より徒歩1分

『大瀧詠一著「映画カラオケ」のすすめ。(月刊東京人2009年11月号)』には

・竹田ビルを左に曲がった先に、秀男がお世話になる八百屋(茂子の実家)がある。

とある。実際次のシーンでも角を左に曲がるが、これがとんでもない場所だった。

​ 秀男と茂子が左に曲がった場所 : 広島乾物店前(橋本ビル前/東京都中央区銀座3-11-10)
奥から歩いてきた秀男と茂子は「イミズ」の看板のある電柱を左に曲がった。
この角の建物は歌舞伎座の裏辺りで、撮影当時は乾物屋だった。新富橋を渡って最初の角、竹田ビルを曲がればすぐ実家なのに、成瀬監督がなぜこの場所を選んだかは、今となっては全くわからない。
この後程なくして茂子の実家「八百常」に到着する。
2015.07.29 巡礼
・東京メトロ有楽町線新富町駅下車 2番出口より徒歩5分

ここで八百常の説明を少ししておく。八百常は古くから続く八百屋で、茂子の兄の山田常吉(藤原釜足)が主人だ。

八百常はセットでの撮影だが、『大瀧詠一著「映画カラオケ」のすすめ。(月刊東京人2009年11月号)』には

・材木屋の手前を右に曲がった2軒目とある。

じゃその材木屋はどこ?となるわけだが、新富橋の一本北に新金橋がある。銀座1丁目方面からこの橋を渡り最初の信号が新金橋の交差点。ここに大瀧氏の言う「材木屋」があった。では右に曲がった右側か左側かだが、それは次の画像でわかる。

​ 茂子の実家 八百常 : トーア新富マンション(東京都中央区新富町1-5-17)
ちょっと判りづらいが、画像左側にミゼットのような車が止まっている。その奥、寿司屋の暖簾の前に到着する茂子の顔が見えるから、新富橋は左方向だ。左方向から来た茂子は右側の八百常に入る。逆に新金橋交差点からだと左側になる。ちょっと書き方がごちゃごちゃしすぎたかな(笑) 
当時の火保図に八百屋常の場所を入れておいたので、これを見れば一目瞭然だ。

新金橋を渡った最初の交差点の右角、青色の所が大瀧氏のいう材木屋だ。当時の住宅地図では建具屋となっている。建具屋でも店の外に材木置いたりするから同じだろう。

その角から2軒目が八百常になる。もしかすると材木屋を入れてない可能性もあるので、3軒目も八百常の候補に挙げてもいいかもしれない。どちらも地図上では空欄になっている。当時は空き家だったのだろうか?

 念のため出そうで出ない、曲がりそうで曲がらなかった竹田ビルも明記しておいた。

では八百常の現状だが、南隣りの3軒目と裏の旅館含めまマンションになっている。左の白いビルが材木屋、黒い車が止まっている辺りが八百常になる。

角を曲がる。
銭湯の入口が見えてきた。
母ちゃんと一緒に入るかい? 拒否る秀男だった。
実家で一服した後、秀男と茂子は近くの銭湯に行った。
桶を持って銭湯に向かう2人。
​左側、塀の内側が新富湯になる。
​ 秀男と茂子が行った銭湯 : 新富湯(新富・ミハマビル/東京都中央区新富町1-15-3)
新富湯の場所だが、八百常から徒歩圏内と予想し、当時の火保図を見たら近所に2軒の銭湯があった。

実家から近いのはめおと湯だが、両側が道路に面してるため、どちらが入口かわからない。左側の道路だと入口は左になってしまい✕。右側の道路だと、曲がってからちょっと距離がありそうだ。また車道に都電が走っているが、一番上の画像からはそんな雰囲気もない。

新富湯は少し離れているが歩いても5~6分の距離だ。道路を右に曲がったところ、建物の右側に入口らしき部分が突出してあるのがわかる。入口前の路地の道幅もいい感じだったので新富湯に特定した。その後だが、めおと湯は昭和43年、新富湯は昭和54年の住宅地には載っていなかった。

2015.07.29 巡礼
・東京メトロ日比谷線、JR京葉線八丁堀駅下車 A3番出口より徒歩5分
アンカー 1
アンカー 2
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アンカー 5
アンカー 6
アンカー 7
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