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Hyper Azabu Tano9
エレキの若大将
キャンパス内で若大将を待つ青大将のシーン。左の尖がったのは日時計と思われる。現存するが若干移動したと思われる。
京南大学キャンパス : 日本大学文理学部(東京都世田谷区桜上水3-25-40 )
その他の画像
次期キャプテン選挙に敗れた青大将が、自分への投票を頼んだ部員を待ち伏せし乱闘になるシーン。
この場所はアメフトグラウンドへの近道になる。奥に見えるのは第2体育館で現存する。左は都立松原高校の旧校舎、右のブロック塀の部分は現在百周年記念会館が建っている。
この作品の京南大学の場所については諸説あるようだ。若大将シリーズDVDのどの作品か忘れたが、オーディオコメンタリーで岩内監督が「明治薬科大学(世田谷区野沢1)」と言っていた。また東京映画地図(2016年刊)では「日本大学商学部(世田谷区砧5)」となっている。ただ、どう転んでも日大文理学部以外は考えられないので、私はここでいく。
1965年 東宝 監督:岩内克己 製作:藤本眞澄 シネスコ カラー 94分
出演:加山雄三、星由里子、田中邦衛、江原達怡、ジェリー藤尾、寺内タケシとブルージーンズ、中真千子、飯田蝶子、有島一郎、二瓶正也、上原謙、久慈あさみ、黒沢年男、高田稔、松原光子、北あけみ、松本めぐみ、内田裕也、岩本弘司、大前亘
アンカー 1
アンカー 2
2007年8月5日巡礼
当時は無かった地下鉄駅へのエレベーターがあり、首都高4号線上りや弁慶橋が全く見えない。仕方なくR246高架と、外堀通り側ガードレールで合わせてみたが、R246側ガードレールの位置が全く合ってない。何度やってもダメなので、この日は退散する。
雄一が警官に場所を尋ねた交差点 : 赤坂見附交差点港区側(東京都港区元赤坂1-2内)
「田能久倒産!」の連絡を受け、ドサ回り先の日光から東京に戻ってきた雄一。取り急ぎ田能久に向かったが、すでに店は閉鎖されていた。仕方なく入口貼ってあった住所に向かったが、途中で迷い警官に尋ねるシーンだ。
場所はご存知の方も多いと思うが、R246と外堀通りが交差する赤坂見附交差点だ。雄一いる方が港区側、奥が千代田区になる。
この場所あえて「魔の聖地」と私は呼ぶ。ここを最初に巡礼したのが2007年。それから2014年までの間に計4回巡礼。しかし納得いく写真が撮れないのだ!奥の首都高4号線と、右のR246高架を合わせれば問題ないと単純に考えていたのだが・・・・・
少し長くなるが、撮影した4回分を嫌でも全て見ていただく。
2008年1月26日巡礼
年も変わり気を取りなおして再挑戦した。今回は地下鉄入口より少し下がっての撮影。
首都高4号線上りとR246高架はバッチリ合ったが、前回同様R246側ガードレールが合わない・・・・・
2009年7月19日巡礼
今回は少し目先を変えてR246上に出て撮影した。全然ダメだ~
2014年11月30日巡礼
前回から5年空いた。この間、自分自身の成長(?)を信じ、期待しつつ入った。この日の撮影枚数は約70枚。ここだけの為にだ。結果は散々たるもの。2008年と殆ど一緒だ。
自分に何か足りないのか?それとも巡礼者を寄せ付けない「魔の聖地」なのか?
この先自問自答の日々が2日ほど続き、すぐに忘れた(笑)
最後の巡礼から2年ちょっと経った2017年2月。サイトリニューアルの作業をしてる中、この場所が頭に浮かんだ。すぐに巡礼に行けるわけでもなく、最後の手段として荻窪東宝さんに撮影を依頼した。快くお受けいただき、2月24日に巡礼された。その後すぐに連絡があった。以下に内容をそのまま載せる。
「麻布田能久さん、うまく合わないと言ってたけど、別に問題ないと思うが。こんなもんかな」 と撮影し、うちに帰ってトリミングしてみたら全然ちがう!!
どうやら荻窪東宝さんも「魔の聖地」にはまってしまったようだった。
その日、荻窪東宝さんが撮影された画像がこちら。
そんな時、ふと頭をよぎったのが「もしかしたら交差点の形が変わってしまったのでは???」
早速、当時の空撮と現在を比べた画像を荻窪東宝さんへ送る。と同時に荻窪東宝さんから同じような空撮画像が到着。どうやら同じ事考えていたようだ(笑)
私が荻窪東宝さんに送った空撮画像がこれになる。
2017年2月24日巡礼
やはり首都高4号線上りとR246高架を合わせると、R246側ガードレールが合わない。この時代だから特殊な撮影機材があるわけでもないし、一体どういう事だろう・・・・・
でも地下鉄駅へのエレベーターを少し避けてる辺りが、私の撮影より数段上手いね(笑)
作品公開1年後の1966年版と2016年版を使用した。
2016年の方に1966年の歩道車道境界線を赤で付けてみたら、思った通り当時に比べ歩道の面積が広くなっているのがわかる。1966年では横断歩道の白線が、薄っすらと2本並んで確認できる。雄一が警官に聞いた場所は★の辺りだ。
それから2日後、再度巡礼された荻窪東宝さんから新たな説明とともに、最終特定として画像が送られてきた。
荻窪東宝さんの説明では「初回は目印を大きなもの(赤字)とし、画像奥に合わせ撮影した為、246側ガードレールが合わず悩んだ。だが雄一と警官は手前にいるので、その辺りを探し、①ラインと②マンホールを目印に今回は撮影した。よって奥の目印は気にしなかった。」との事。なるほど、確かに私も奥の大きな目印ばかり目がいっていた。では荻窪東宝さんの特定画像で最後とする。
2017年2月26日巡礼
R246側ガードレールが、現在の植込み左のラインと重なっている。雄一と警官が話してるのは、植え込み左ラインが右上方向へ折れる角辺りだ。
画像左、ブロックの無いスペース(①のライン内側)は、現在の手前の階段の場所で、その右の植込から当時は歩道だった。②マンホールの位置も当時と変わらず、現在その右に点字ブロック敷かれている。外堀通り側ガードレールは、多分地下鉄入口と面一ではないかとと推測する。以上!
苦節10年、荻窪東宝さんのお力をお借りし、ようやく特定する事ができた。心から感謝いたします。
年を取ると年々頭が固くなるのはわかるが、常に問題意識を持ち柔軟に対処していかないと、この先が心配だ・・・・・
アンカー 3
警官が指さした方向がこちらの画像。1棟のみ突出してるので、このビルということで間違いないだろう。田能久を追われた、おばあちゃん、久太郎、照子が住んでいるマンションという設定だ。
名称は「赤坂ビル」で現存する。
こちらは荻窪東宝さんが、赤坂見附交差点巡礼の際に撮影されたもの。注釈付をそのまま載せたので、私との違いがわかると思う。
画像右下の消火栓標識まで写し込んでる辺りが流石だ。
田能久一家が移り住んだマンション : 赤坂ビル(東京都港区赤坂4-1-32 )
1969年版住宅地図で周辺を見てみる。
公開から4年経っているが、赤坂ビルの並びに建物らしき表示がない。この時点でも突出してるようだ(笑)
前回の「雄一が警官に尋ねた場所」も載せておいた。
こちらが赤坂ビルの入口になる。公開1年前の1964年竣工だが、古さは感じない。
撮影:荻窪東宝様
話は戻るが、雄一が日光から田能久へ戻った際に入口に貼られていた案内だ。ご丁寧に所番地まで書いてある。
東京都港区赤坂新町1丁目36番地 とある。
「赤坂新町」という町名は、公開1年後の1966年の町名変更により、現在の赤坂3丁目にすべて含まれてしまい消滅した。
では「赤坂新町1丁目」はどこにあったのだろうか?左の地図は、Goo地図の明治版で公開されていたものだ。赤坂新町とはっきり表示されている。現在の赤坂3丁目21番地になる。R246から一ッ木通りへ入った左側の2区画だ。移転先の番地が1丁目36番地となっているが、見た感じ20番地台までしかなさそうだ。
アンカー 4
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